江戸城裏鬼門 鎮護のお寺として
今日まで伝えられる 大圓寺

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松林山大圓寺(大円寺|通称:大黒寺)は、徳川幕府がようやく軌道に乗りはじめた江戸初期の元和年間(1615〜23)頃に、奥羽・出羽三山の一つ湯殿山の修験僧大海法印が、大日如来一字金輪仏を奉じて山を下り、目黒の地に祈願道場を開いたのが始まりとされています。


大海法印はたちまち人々の心を捉え、大圓寺は間もなく、修験行人派の本山となったことから、大圓寺前の坂道が「行人坂(ぎょうにんざか)」と呼ばれるようになりました。


その後、天台宗延暦寺派(本山・滋賀県比叡山)に属し、将軍の懐力といわれた天海大僧正が江戸城の鬼門の守りとして、東叡山寛永寺を創建。江戸城裏鬼門鎮護のため比叡山から伝教大師作と伝えられる三面大黒天を勧請し、大圓寺に祀られました。

開運出世大黒天
(江戸城裏鬼門守護)

大圓寺の大黒様は江戸城の裏鬼門を守るため奉安され、「家康公のお顔をモデルに天海大僧正が彫られた」と江戸時代の書物の文献があります。

特にご利益あらたかで、東叡山 護国院、小石川伝通院塔中福聚院 大黒天と共に「江戸の三大黒天」として崇め親しまれています。ご縁日は、こよみの「きのえね」(60日毎)の日に合わせ一週間浴餅供を厳修し結願に甲子祭が執行されています。

大黒天はインドのヒンズー教のシバ神であり仏数の守護神として日本に伝わり、福徳を示し、商売繁盛、出世開運などのご利益があるとされています。

十一面観音像
(区指定文化財)

大圓寺正面、本堂には、開運出世大黒天とともに十一面観音像が安置されています。開運出世大黒天の願いの力を聞き届けるため、そのお役目として祈られております。なお観音様のご祈祷日は一月一日から三日間の修正会となります。

この観音様は藤原期(894~1167)の作となり、江戸時代の公的出版物『新編武蔵風土記稿』に紹介されています。十一面観音は、頭の上に十一のお顔を持つ仏様です。

その功徳は、十種類の現世の功徳(十種勝利)と、四種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われています。あらゆる方向に顔を向け、より多くの人の苦しみ、悲しみに気づくことができる十一面観音さまと是非、ご縁を結んでいただきたく存じます。

行人坂火事

大圓寺が歴史に大きく登場したのは、江戸三大大火の一つ「目黒行人坂の大火」の火元としてでした。特に江戸中期の明和9年(1772)うるう年の2月29日。寺の失火というよりは放火によるもので、大圓寺にとっても江戸市民にとっても突然の悲劇でした。
折からの強風に火は次々と燃え広がり、麻布、虎の門、日比谷門や和田倉門、江戸城の一部も焼き、日本橋、神田一帯、上野から千住辺りまで延焼、江戸八百八町のうちおよそ六百三十町を焼きつくしました。
焼死者数は数知れず、数千人とも一万人以上とも伝えられています。そのため、人々はこの明和の9年を”メイワクな年”だと盛んに噂し、元号を「安永」と改めざるを得なかったのでした。

五百羅漢石仏群
(都指定文化財・新東京百景指定) 

火元となった大圓寺は70年以上、嘉永元年(1848)まで再建を許されませんでした。再建が許されなかった間、仏像の類いは隣の風上で類焼をまぬがれた明王院(現・ホテル雅叙園東京)に仮安置され、大圓寺の焼け跡には、明和九年の大火で犠牲となった人々の霊を慰めるため、五百羅漢像が石彫で造られ並べられました。

「江戸名所図会」

「江戸名所図会」に描かれた絵図を見ますと、前面中央に釈迦三尊と十六羅漢十大弟子像、それを取り巻くように、五百二十体ほどの羅漢像が境内一杯に並んでいます。
その後、嘉永元年に薩摩藩主・島津候の勧請によって大圓寺が再興された時、境内の左側に移されて以来、数回、修復の手が加えられ、現在の姿にいたっております。
羅漢像の中には、聖母マリアを連想させる赤ん坊を抱いた女性の羅漢像もあり、また手にしている錫杖の鐶を掛ける部分が十字架の形をした羅漢像もあり、歴史的重要な文化財となっております。(都指定重要文化財・新東京百景指定)
四年に一度の「うるう年」の2月29日に行人坂火事万燈会供養が執行されています。

「万燈会」

清涼寺式釈迦如来立像
(国重要文化財)

大圓寺本尊の釈迦如来像は、不思議なご縁で奉安されました。
この釈迦如来像は頼朝が鎌倉に幕府を開いて直ぐの、建久四年(1193)に、嵯峨の清涼寺釈迦如来像を模して造られ、北条家の念持仏として北条家屋敷(釈迦堂ヶ谷)釈迦堂の仏でありました。

像の高さは162.8センチ、榧材が使われています。体内には白銅菊花双雀鏡と女性の髪の毛や紙の五臓六腑などが納められています。「生身」の釈迦如来といわれる所以です。

毎年、大晦日、一月元日~七日まで、四月八日の花祭り、甲子祭の日(きのえの日、年六回)、また、十一月開催の東京都文化財ウィークも特別開帳があります。

八百屋お七と吉三の物語

行人坂火事とは別に、大圓寺にはもうひとつ火事にまつわる逸話があります。それはこの寺に眠る、西運という僧に縁があります。この人こそ、かの有名な八百屋お七の恋人といわれた吉三であり、お七の死後剃髪し、供養に努めた人物なのです。
歌舞伎・浄瑠璃など様々な物語に取り上げられた八百屋お七の事件は、天和三年(1683)に起こりました。本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、火事で避難した先の円林寺の小姓・吉三と恋仲になりました。
しかし短い避難生活のことやがて離ればなれになったお七は吉三会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったということです。大事には至らなかったものの当時放火は火あぶりの大罪。かぞえで16(今の15歳)だったというお七は江戸市中引き廻しの上、大井・鈴が森で火あぶりの刑になりました。
出典:立命館大学ARCコレクション「松竹梅湯島掛額」

生涯八百屋お七を供養発願した西運(吉三)

西運上人像

その後、恋人吉三は剃髪し西運と名を改め、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼の旅に出ます。

江戸に戻った西運は、大圓寺の坂下にあった明王寺に身を寄せながら、目黒不動尊と浅草浅草寺へ隔夜日参一万日という念仏行を開始します。

雨の日も雪の日も休む事なく、鉦をたたき念仏を唱えながら、二十七年(一説には四十年とも)もの年月続けられた日参の間に集め続けた浄財で、西運は行人坂を石畳に改修し、目黒川に雁歯橋を架け、明王院境内に常念仏堂を建立しました。

来迎阿弥陀三尊像
(区指定文化財)

来迎阿弥陀三尊像(区指定文化財)とお七地蔵

明王院は明治13年に廃寺となり、仏像などはすべて隣寺の大圓寺に引き取られました。現在、大圓寺には西運の位牌、墓、念仏鉦が大切に保管されています。

また、阿弥陀堂内には、西運が常念仏堂を建立した際に本尊として祀ったという「来迎阿弥陀三尊像」と「お七地蔵」、その胎内より骨と血脈(師から弟子へ、仏教の教典が伝えられたことを示す系譜)が発見されたという「西運上人像」が、安置されています。

お七地蔵

阿弥陀堂内の「来迎阿弥陀三尊像」の前にあるのが「お七地蔵」。そのお姿は西運が一万日の行を成し遂げったその夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げた姿を言われております。この地蔵菩薩像は身体を多少左へむけた形が特徴的です。

また阿弥陀堂の壁際には、西運が浅草への日参の間に出会った遊女たちや吉原の人々の名を記した大数珠「百万遍の数珠」があります。

そしてお堂の前には、風雪吹きすさぶ中を念仏行を続ける西運の姿が刻まれた碑が立ち、江戸の昔から語り継がれた恋物語の名残を今に留めています。
西運上人の祈りの故事にならい、当山では毎日不断念仏が勤められております。